講師紹介

講師写真(佐藤 州・マリ子)

「ラルゴピアノ教室」は、【佐藤 州】【佐藤 マリ子】の2人の講師で運営してきました。

全く違う生い立ちの2人ですが、それぞれ得た経験を話しあい、長所を混ぜ合わせて教室の方針にしてきました。

発表会やコンクールの前には、お互いの生徒を交換してセカンドオピニオンの役を果たすので、その機会に生徒さんがグーンと進歩します。

マリ子先生は亡くなってしまいましたが、これまでに行ってきた指導方法は引き続き行なって参りたいと思います。

 

佐藤 州 ─ Shu Sato─

日本ピアノ教育連盟会員 ヤマハピアノ演奏グレード4級、同指導グレード4級

私の履歴書

講師写真(佐藤 州)

無理矢理連れて行かれたオルガン教室

幼稚園時代に親に無理矢理にヤマハオルガン教室(幼児科の前身)に連れて行かれたのが音楽と出合った始めでした。
当初はやりたくなくて、練習の最中にうたたねしてしまう始末でした。

徐々にピアノへの興味がわき、音楽にはまって行く

小学3年生からはピアノを佐賀静枝先生に師事、5年生の頃「エリーゼの為に」を弾いてみたくなり、自分で勝手に弾いてからピアノ先生に見て頂くと、いろいろな細かい注意を受け、皆が弾くポピュラーなこの曲にもこの様な深い解釈や表現方法がある事を知り、ピアノへの興味が湧いてきました。

更に中学になってからベートーヴェンのソナタ「悲愴」を手掛けると、より一層音楽の深さに感嘆し、ピアノにはまっていきました。

ピアノ曲に限らず交響曲や協奏曲等も貪り聞くようになり、ベートーヴェンに心酔していきました。

一般学校へ進学するが、ピアノへの情熱は捨てきれなかった

音楽高校への進学を希望したのですが、両親の許しを得られず、一般高校への受験勉強をせざるを得ませんでした。
それでも寝る間を惜しんで毎日3時間の練習をしていたのは音楽への止むにやまれぬ情熱があったからでしょう。

中央大学附属高校から同大学に進学しましたが、大学に入ってから、佐賀先生の紹介で、拝田正機先生(当時国立音大助教授)に師事し、再び音大への転学を希望したのですが、先ずは中央大学を卒業してからと説得され音楽の勉強に専心することが出来ませんでした。

卒業後、国立音大の職員として勤務しましたが、ピアノを勉強したい情熱は捨てがたく、半年で退職、親を説得し音大を受験することを許されましたが、ピアノ科ではなく作曲科を受験するよう薦められ、宍戸睦郎先生(当時芸大講師兼洗足学園大学教授)の門を叩くことになりました。
宍戸先生から芸大を受験するには最低3年間の勉強が必要と言われ、それは経済的にとても許されないことだったので、やむなく洗足学園大学に行くことになりました。
同大学ではピアノを山根弥生子先生(当時洗足学園大学教授)に師事しやよいの会に出演させて頂き、ステージ経験を重ねました。

他のピアノ専門の講師にはない視点で、自分と同じ様な悩みをもつ子供達の力になってあげたい

少年時代音楽環境に恵まれなかったので、その経験から同じような悩みを持つ子供達の相談の相手になり、才能を伸ばす力になってあげたいと思います。

でも今思うと、一般大学に行ったことも音楽に偏らないで広く社会を知ることもできたし、作曲科で学んだ事で、曲の構造や作曲者の気持ちが深く理解できるようになり、今ピアノを教える上で、ピアノ科の人とは一味違った角度からのアドバイスも出来るようになり役立っています。

大学卒業後も色々な環境で新しい奏法や声楽、様々な指導方法を学ぶ

卒業後、作曲科の経験を生かしてヤマハ音楽教室ヤマハグレード取得講座の講師を勤め、ピアノ科講師としても大勢の生徒を教えるようになりました。

教える傍ら再びピアノの勉強をしたくなり、寺西昭子先生(当時桐朋学園大学教授)の門を叩きました。
先生はご多忙でなかなか新しく生徒をとらないとのことでしたがお宅に伺ってピアノを聞いて頂くと納得して頂けて、入門を許され、ロシアの新しいピアノ奏法、言葉で説明できないような微妙なピアノのタッチを教えて頂きました。

ヤマハでは作曲家湯山昭先生の作品発表のコンサート参加の為、児童合唱の指揮と指導をする機会があったので、声楽を小嶋聖史先生(二期会会員)に教えを請い声楽を学びました。

小嶋先生は日常生活の比喩を使って解りやすく発声のコツを教えて下さったので、私はそれを応用してピアノのテクニックを教えています。

ヤマハでは子供たちに耳の訓練とか、伴奏づけなど楽しい中に音楽の世界に導入する優れたテキストがあり、大変勉強になりましたが、教室の制約内でしなければならないことから、ピアノの指導では一人一人の才能を伸ばしていくのには限界が感じられました。

ヤマハで同僚だった松平マリ子と結婚後、2人の理想のピアノ教室を開くことになり現在に至っています。

上に戻る

 

 

佐藤 マリ子 ─ Mariko Sato─2017年12月14日 永眠

全日本ピアノ指導者協会指導会員、ヤマハピアノ演奏グレード4級

私の履歴書

講師写真(佐藤 マリ子)

ピアノの才能を見いだされ、ピアニストを目指した幼少時代

6歳からピアノを始めた私の最初の先生、尾高節子先生(当時国立音大講師)はとても優しい方で、曲の情景を子供の私に良く解るように話して下さったので、私はピアノが大好きになりました。

先生は心の広い方で、ご自分の手の中にだけ抱え込むのではなく、私が小学高学年になると、他の先生や評論家に私の演奏を聞い頂いて才能を伸ばすチャンスを作って下さいました。

諸先生のご推薦もあり、私はピアノを専門に勉強することになり、尾高先生のお骨折りで当時我が国トップのピアニストで芸大教授でもあった安川加寿子先生の、ホームレッスンのクラスに入ることが出来ました。

素晴らしい先生方に学び、人生の指針を得る

ところが専門の道に入ってみるとその厳しさは大変なものでした。
レッスンにいくと周りは綺羅星の様な優秀な先輩ばかりで、先ず、テクニックを基礎からやり直さなければならなかったのです。

下見をして頂いた高良芳枝先生(現在芸大名誉教授)は、スラーの切り方やフレーズの作り方を1小節ずつ丁寧に指導して下さり、教師になってから参考になることが多々ありました。

先生のレッスンは懇切丁寧なので何時も時間をオーバーし、当時教えておられた芸大付属高校や桐朋学園の生徒さんも学校で溢れた分を自宅に招き無償でレッスンしていらしたので、先生は何時も忙しくしていられました。
その上月謝は法外に安くて、決して過分には受け取られませんでした。

安川先生の演奏の素晴らしさは言うまでもありませんが、私がホームレッスンで垣間見たのは、高ぶらず謙虚で公平なお人柄でした。ご自分の練習時間を削っても大学で教鞭をとり、ピアノ教育連盟を創って後進の育成に尽くされたことが日本のピアノ界をここまで発展させたと言えるでしょう。

両先生の自分を犠牲にしても社会に奉仕するお姿は、ピアノの上だけでなく、私の生きる大きな道しるべになりました。

体を壊し、激しい練習に耐えられず、落ちこぼれてしまう…

でも肝心のピアノは激しい練習に耐えられず、体を壊して半年間休んだりするうちに安川門下の落ちこぼれになっていて、ピアノを弾くことに喜びを感じられなくなっていました。

高校になってからは先生に励まされ、勉強のためにと毎日コンクール(現日本音楽コンクール)に挑戦しましたが、入選を果たせませんでした。

ただ、この3年間、夏休みは汗にまみれての6時間の練習で培われた沢山のレパートリーは音大を卒業するよりも貴重な財産となり、今役に立っています。

その後、ピアノが本当に辛くなり、暫らく離れてしまった時期がありました。

再び音楽の世界へ。
別の角度から音楽を捉える事が出来、次世代にピアノを伝える事を使命に

再び音楽の世界に呼び戻されたきっかけは山根比奈子先生(当時洗足学園大学教授)の独唱会の伴奏をすることになり、それ以来声楽の伴奏や、多くの合唱団の伴奏をするようになりました。
その経験から、一音一音の色合いや、ブレスの大切さ等、まるで別の角度から音楽を捕えることが出来ました。

山根弥生子先生(当時洗足学園教授)に師事し、年を追うごとに演奏に深みを増し、前進されるお姿に感動し、私もレパートリーを開拓しました。

更に後年教えを請うた山岡優子先生(当時フェリス女学院大学教授)からは、近年のデリケートに反応するピアノでは、響きを生かした演奏が求められ、当然40年前とは奏法が変わって来ること、ピアノ教師は常に世界の新しいテクニックを学び、次世代を生きる生徒に伝えねばならないと諭されました。

演奏家を夢みて果たせなかった私ですが、今迄の勉強を生かして、これから羽ばたく生徒さん達の良き指導者になることが、より意義があると思い、生きがいを感じています。

もう若くない私ですが、セミナー等に参加して学び、いつまでも子供達のお姉さんのように新鮮な気持ちで指導に当たりたいと思います。

 

上に戻る